20歳で結婚、出産ーーーそして今の私。
20歳で結婚、出産ーーーそして今の私。
高校生の私を知る同級生はたいてい驚く。
なぜなら、どんな女の子よりも結婚からはほど遠い「わたし」だったから。
自ら命を絶った父親の存在が嫌で。自分をなんとか変えたくて。もがいていた10代。
とにかくこの地を離れよう。離れたい。の一心で上京。
東京には子供のいない叔父叔母がいて。
その二人の養女になるという条件で学費を出してもらえるのなら、そんな有難いことはない。
私は二つ返事で軽く(後から後悔しますが)養女になる決断をした。
ところがところが。人生そんなに簡単に上手くいくものではなく。
叔父叔母は子供に何を望んでいたかというと、
5時に帰宅して犬の散歩、メモ書きされた通りの買い物、夕食後の家じゅうの床拭き掃除、お風呂で叔母の背中を洗い流す。
そのほかにも、叔父叔母の帰宅時には三つ指をついて「おかえりなさい」
をしてほしいとのことだった。
もともとわがままし放題、自由な人間だった私だが、自らをこの環境を選んだのだ。
やるしかない。母子家庭でもう、母や姉に迷惑をかけたくはない。
この思いでなんとか頑張った。
そんなある時仙台から母方のおばちゃんが叔父叔母の家に泊まることになった。
私はいつものように叔母の望んだルーティーンをひたすらこなしていた。
床拭き掃除後、畳を乾拭きしていたところに、おばちゃんが「えらいねえ。小間使いさんみたいによく頑張ってる。」と、1万円を握らせてくれた。
その言葉でなにかが切れる音がした。
毎日夜ごはんは腐った(納豆は発酵食品ですが、コレ発酵すすみすぎるとアンモニア臭がえらくひどく、きつくなるんですよ笑)冷凍してある納豆とお味噌汁。
対して、部屋飼いしていたプードルには最高級の人間が食べるお肉。
それでも、私はいいとずっとおもっていた。
それからというもの私は何度か外泊するようになっていて。
その外泊したときに限って、叔父が脳梗塞で倒れた。
叔父の入院中に「肝心な時にはいないんだね」と喧々囂々とせめられた。
「今までお世話になりました」
「こんなことなら大きな宝石でも買っとけばよかったわ」の捨て台詞をいただき。
その家をでてから就活を必死でしたものだ。
旅行会社の内定を3社もらえた。その直後妊娠がわかった。会社には3か月行ったが、
仕事のかわりはわたしでなくてもいくらでもいる。
このお腹の子のお母さんは私しかいないんだ。そう思ったら、迷いはなくなり、決断できた。親友には「よく考えて」と泣かれた。当時は授かり婚なんていい言葉ではなく、
できちゃった婚。しかもうまくいかない話ばかり。あの当時、親友よ。本当に心配かけたね、ごめんね。ありがとう。
幸い私の今の夫は非常に男気のあるいい男でしたので逆に私の人生を心配してくれた。「おまえは仕事を辞めていいのか」と。
私は彼の男気についていく。と簡単に決断できた。
あの人生の大きな決断をしてから早27年。
あの決断があったから、今この山陰の地に、そして今私の周りにいるみんなとの縁がある。
なにか決断しないといけない、と思ったことがあったら、私は必ず「大変!」な方を選択するようにしている。
周りからみたら全く信じられない選択だろうが、私がもっとも私らしく生きていくのにはじつに最良の選択なのだと最近強くそう思う。
自分で決断するのにあえて困難な方を選ぶと、他のだれにも体験できないドラマチックな人生がそこにはある。そしてこれからもわたしはそうやって一瞬の迷いと、潔い決断をしていくにちがいない。
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